アカプルコの海/Fun in Acapulco:1963

エルヴィスがいた。

1963年暮れにリリースされたサントラアルバム『アカプルコの海』の映画が公開されたのは、翌年の春休みシーズンで、続いてゴールデンウィークには『ラスベガス万才』が公開されました。それぞれ映画の趣が違い、サントラも全く違った味わいが楽しい傑作揃い。が、しかしThe Hollywood 。
映画『エルヴィス(ELVIS)』では、この有名なハリウッドの看板の下にエルヴィスの側近である通称メンフィスマフィアと、TVスペシャルのプロヂュサーであるスティーヴ・ビンダーが集結、番組の構想を話し合い、ハリウッド映画との訣別が語られます。

当時「映画」はエルヴィスを世界中のファンに見せる唯一の手段でした。日本の多くのファンも当時は映画しかなかったわけで、既存の思考回路しか持たないマネジャー、トム・パーカー大佐には限界だったのでしょう。番組製作期間中エルヴィスはNBCスタジオ4で生活し、リハーサル後に何時間にも及ぶジャムセッションを行っているのを見たスティーヴ・ビンダーはこれをステージ上で再現させ番組に取り入れる案を思いつき、マスコミを「エルヴィスこそ真のロックだ!」と唸らせたカッコいいシッドダウンショーに結実しました。

アカプルコの海/Fun in Acapulco

起きて、新しい一日を迎えよう
ギター弾きや
眠そうな星に
お別れを言う時間だ
休暇にぴったりの
なんて素敵な朝だろう
さあ起きなよ
ネボスケさん
空が明るくなっているのに
まだベッドにいるんだね
アカプルコは楽しいよ
アカプルコ
ほら、日が昇る
アカプルコ
楽しい一日の始まりさ

*待ちきれないよ
ここの可愛い娘さんたちに会えるのが
ひとりひとりにキスしょう
昼寝をしている場合じゃないよ
思いきり楽しむのさ

*リピート

**昼寝をしている場合じゃないよ
思いきり楽しむのさ

**2回リピート

フェイドアウト

『アカプルコの海』のレコーデイング・パーソネルは、ギター/スコッティ・ムーア、パーニー・ケツセル、マンドリン&リズム・ギター/タイニー・ティムブレル、ベース/ レイ・シーゲル、ドラムス/D.J.フォンタナ、ハル・ブレイン、パーカッション、マリンパ‘”一二一・マッティンスン、パーカション/エミール・リチヤード、ピアノ/ダドリー・ブルックス、トランベット/アンソニー・テラン、ルドルフ・ロエーラ、コーラス/ザ・ジョーダネアーズとジ・アミーコスがそれぞれ担当した。

<アカプルコの海>は、オープニングの美しい夜明けの海のタイトル・バックに登場。フィルム・パージョンはストリングスも加わる)。日本では公開直前の64年2 月にシングル・カットされた。

で、<アカプルコの海>ですが、これは別格の技。
20週連続1位になったアルバムの成功によって、別格の風格が漂うほどに、日本ではひとつのトレードマークになった「ブルー・ハワイ」に、今度はラテンで挑戦。日本では前作『ヤング・ヤング・パレード』そして『アカプルコの海』続いて『ラスベガス万才』と好調エルヴィス映画が目白押し。

兵役から帰還したエルヴィスの特徴は毒気を抜かれたようになったものの、その分、歌の熟練度が圧倒的に進化。エルヴィス・プレスリーって、音楽だけでなく、多くの人に影響 を与えたミュージシャンだけど、あまりに超越してしまっていて、誰も真似がで きない。その傾向は『アカプルコの海』でも遺憾無く発揮されている。

当時はサーフィン映画が多く作られていたが、エルヴィス映画はその頂点にポジショニングされていた感がある。それを際立たせていたのが、ヒトの心に寄り添うエルヴィスの歌にありました。と、いってもエルヴィスには当たり前のことなのでエルヴィス自身には物足りない作品だったはずで、あからさまに否定はしなかったが肯定的ではなかった。

オープニング・ナンバーが威力を発揮する場所は、アカプルコの入江。
メキシコのエネルギーが匂いたつ、流動系の真っ赤な朝日が昇ろうとする瞬間。
沈黙を突き破って、真新しい一日と昨日の最後の境界を、切り刻む音が、今日と昨日を分けます。

カッコいい歌詞が満載の現代の歌々、心が入らないと単なる記号。
ラジオから聴こえる歌と対話して育ったエルヴィスは歌詞のひとつひとつに魂をこめる。

♪ アカプルコ
起きて、新しい一日を迎えよう ♪

目をさまして活動開始の指令がエルヴィスから飛びます。
幸福に入る用意が出来ていないと、損をするような気になる声です。

アカプルコに行った事のない身では、<FUN IN ACAPULCO>を<私の楽しみ>と名づけて聴くと、より楽しめます。

時計に起こされるのでなく、自分の意志に起きるのは楽しい。一日がより濃厚で、ぎっしりにできます。

♪ ギター弾きや
眠そうな星に
お別れを言う時間だ ♪

朝の掃除は、「さあ、いくぞ」みたいなところがあって、気持ちがいい。
掃除までしなくても、ベッドメーキングするだけでも、メリハリついて、気持ちがいいです。

どうせ汚れるのに、毎朝、なぜ掃除をするのかという意見もあるけれど、自分のために他ならない。

自分にとって最良の一日を過ごすための準備。

どうせ死ぬのに、なぜ鍛えるのか、と同じような疑問。
必要がないのに鍛えているのは、したいことができるため。
いましたいことがはっきりしなくても、したいことが出来たときに、あきらめずに済むように鍛えておく。
部屋だって、考えたくなったときに、澱みなく考えることに集中できるように、 掃除しておく。
主に行動する場は、部屋の外だったにしても、考えるためには、整理整頓されているほうが効率的です。

掃除がムダになるのは、善良な心が、誠意ある行動が、ふさわしい結果とは、ほど遠い結果にしかならないことによく似ています。

昔から「お天等さまは見ている」といいます。
お天道さまとは自分の神に他ならないのだから、報われないばかりか、反対の結果になっても、気にしない。
そんなことで、落ち込んでなんかいられない。

 ♪ 昼寝をしている場合じゃないよ
思いきり楽しむのさ ♪

状況によって、自分を楽しめなくなるのは、自分の生の気持ちを知らずに、何かに向かって頑張ろうとするから。
本当の気持ちを曇らさずにみれば、自分の生の気持ちは見えてきます。

太陽はそのためのもの。

「お天等さまは見ている」のだから、お天道さまにまかせましょう。
どんな状況になっても、自分を楽しむのが、<アカプルコの海>のいいところ。

♪ さあ起きなよ
ネボスケさん
空が明るくなっているのに
まだベッドにいるんだね
アカプルコは楽しいよ ♪

エルヴィスの歌は、ナニを聴いても、エルヴィスの初期衝動が爆発した頃の歌が含まれているような気がします。

NHKの大嘘報道とケネディ大統領暗殺事件

『アカプルコの海』がクランクアップ後に起こった、ケネディ大統領暗殺事件は、1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中の現職の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがダラス市内をパレード中に銃撃され、死亡した暗殺事件である。

一気にベトナム戦争が過激化して、若い兵士の動員が加速化する。一方で「私には夢がある」とスピーチしたキング牧師は翌年1964年ノーベル平和賞を授与され、公民権運動は終わりを迎える。

ビートルズがアメリカに進出するきっかけとなったのは、「She Loves You」という曲がアメリカで注目を集めたのは、公民権運動を推していたケネディ大統領暗殺事件の翌年’64年の1月になってからのことだった。つまり黒人差別問題とビートルズは直接的に関与していない。

また黒人差別の典型的な事例としてひっぱり出されるリトル・リチャードは、1962年にロック歌手として復帰。この復帰コンサートの前座を務めたのが、無名時代のビートルズである。また、この時期のサポート・ギタリストの一人に、ジミ・ヘンドリックスがいた。

リトル・リチャードは。1957年、人気の絶頂期に突如引退を発表し、アラバマ州のオークウッド大学に入学して神学を修め牧師となった。62年復帰するまではロックを罪深い悪魔音楽として遠ざけゴスペルを歌っていた。

ベトナムに派遣される恐怖からサイケドラッグLSDが大流行しはじめる。陽気なアメリカンは急速に消えていきだした。エルヴィス映画は『ラスベガス万才』という名作を最後に、勢いをなくす。エルヴィスは映画会社と結んでいた契約の完了を待つしかなかった。

エルヴィス・プレスリーとは何者だったのか

ロックンロルにちょっとでも興味のある人な、もう何度も繰り返し耳にしてきたストーリーがある。

1935 1 8 日、ミシシッピ州テユペロで双子の兄弟のひとりとして生まれたエルヴイス・アーロン・プレスリーがたどった道のり。このストーリーは何度でも繰り返し繰り返し確認されてしかるべきものだ。ことロックンロルに関する限り、すべてはここに始まり、ここにピークを形成した。プレスリー家はファースト・アセンブリー・オヴ・ゴッド教会に入信しており、エルヴイス少年も子供のころから白人ゴスペルに親しみなが育った。カントリー・ミュージックも大好きで、1945 年、叩歳のときには、ミシシッピH アラパマ両州合同の共進会のコンテストでレッド・フォリーのレパートリーだったカントリー・バラード「オールド・シエツプ」を歌い、2 位になったこともある。翌年の誕生日にはギターをプレゼントされたそうだ。エルヴイスは自転車かギターを欲しがっていたそうだが、死産だった兄ジェーシーのいない現在、たたひとりの息子となってしまったエルヴイスにケガをさせてはという両親の配厳からギターがプレゼントされたのだという。

やがて1948 年、一家でテネシー州メンフイスに移住。この引っ越しもエルヴィスに大きな影響を与えた。メンフイスは南部の黒人労働者たちがニューヨークやシカゴへと向かう中継地点となっていた土地。そのため古くから黒人音楽の中心地として栄えていた。そんな街に飛び込んだエルグイスは、街に渦巻く黒人のR&B にも大いに興味をひかれるようになった。

「メンフイスの白人の閉じゃR&B はH 深い音楽とされていたんだ。家でぼくがR&B のレコードを開いていると、がみがみうるさく言われたものさ。ぼくはいっこうに気にしなかったけどね」と、エルヴィスはのちのインタヴュで語っている。もちろん、当時エルヴイスがただひとり、こうした黒人音楽に熱心に耳をていた白人だったわけじゃない。ロックンロールの名付け親としておなじみの白人DJ アラン・フリードが自分の番組でR&Bをかけはじめたのも、1951 年、某レコード店でR&Bに熱心に聞き入る白人の若者たちの姿を目撃したのがキツカケだったと言われているし、ロックンロル・ブームの発火点的ヒットとなった「ロック・アラウンド・ザ・クロック」で知られるビル・へイリーも1940 年代後半からは白人的なカントリー&ウエスタン音楽に加えて、デキシーランドや古いスタイルのR&Bなども演奏していたとコメントしている。もっと時代をさかのぼれば、初年代のジミ・ロジャーズ、幼年代のハンク・ウィリアムズなどのカントリー作品の中にもすでに少なからぬブルースからの影響を聞き取ることができる。R&Bは罪深い音楽、とされながらも、その奥底に流れる圧倒的なエネルギーと吸引力を素直に受け入れることができた・:エルヴイスもそんな直感にすぐれた白人のひとりだったわけだ。デビューのキツカケはほとんど偶然にやってきた。

1953 年、ハイ・スクールを卒業したエルヴイスはクラウン・エレクトリック・カンパニーという会社に就職し、トラックの運転手として働き始めた。彼は最初にもらった給料で自分の歌を吹き込んだレコードを作った。母親の誕生日プレゼントにしようしたと通説だった。メンフイス・レコーディング・サーヴィスのスタジオへと出向き、4 ドル出して母親が大好きだった古いバラード曲「マイ・ハピネス」 レコーディングした。

このスタジオを経営していたのが、DJ 弁護士などとしても働いたことのあるサム・フイリップス。1950 年、地元に無数にいる黒人R&Bシンガーや白人カントリー-シンガーたちの活動の場としてメンフイス初の恒久的スタジオを作った男であり、ちょうどこの時期、1952 年の末に「サン・レコード」という新しいレコード会社を発足したばかりの白人プロデューサーだった。実はサム・フイリップスはレコード会社に発掘した新人を売り込む仕事もしていて長年、「黒人のように歌える白人シンガーを見つけたら、俺は億万長者になれる」と考えていたそうだ。ザム・フイリップスもサン・レコードで様々な黒人音楽のレコードを制作しながら、アラン・フリード同様、それが黒人ばかりでなく、実は白人の若者たちをも隠れたところで熱狂させていることを体験していた。サムにとって「ロック・アラウンド・ザ・クロック」はR&Bでもロックンロールでもなかったのだ。が、このベールをはぎとって爆発的な商品にするためには、やはり白人のパフォーマーが必要だった。そんなふうに「黒人のように歌える白人」を探し求めていたサム・フイリップスのもとに、本当に偶然にエルヴィス・プレスリーという若者が現われた。

エルヴイスがレコードを自主制作した当日、彼の歌を聞いたスタジオのスタッフ、マリオン・キーズカーが、エルヴィスに可能性を感じ住所をメモしておいたらしい。そして、およそ一年後の1954 6 月、フィリップスはエルヴイスに連絡をとった。

7 5 日からスタジオに入り、ギタリストのスコッティ・ムア、ベーシストのビル・ブラックの3 人でレコーディングを試みた。最初はナッシュヴイルから仕入れたカントリー・ソングを歌わせようとしたが、レコーディングは難航。が、何曲も試行錯誤を繰り返す中で、エルヴイスがアーサー・ビッグ・ボーイ・クリューダツプのブルース・ナンバー「ザッツ・オール・ライト」を歌いだしたとき、事情は一変した。

のちにスコツティ・ムーアが語ったところ、エルヴイスはジョークのつもりだったらしい。休憩時間にみんなを笑わせようとして「ザッツ・オール・ライト」をおどけた調子で歌ってみせただけ。それに合わせてスコッティ・ムアもギターを弾いていた。するとコントロール・ルームからサム・フイリップスが飛んできて、そのまま続けろ、録音しよう、と指示を出した。3 テイクか4テイクでOK が出たという。サム・フイリップス以外の誰もが、そんなにたいしたものじゃない、と思っていた。もちろんエルヴィス自身も、だ。が、ここでもまた偶然の女神が微笑んだ。エルヴィスが掻き鳴らす生ギーに、スコッティ・ムーアが軽快でブルージーなリフをかめ、ドラムがいなことをカヴァーするかのようにビル・ブラックが弦きつけなが強烈なスピング・ベースを聞かせる。最低限のシンプルな編成にもかかわらず、彼らの演奏には、そして何よりもエルヴイスの歌声にはこれまで誰も聞いたことがないようなパワと新鮮なエネルギーがみなぎっていた。このレコーディング・セッションで録音された数曲の中から、サム・フイリップスは「ザッツ・オール・ライト」と、カントリー/ブルーラスの王者であるビル・モンローのレパートリーをカヴァーした「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」をピックアップしてテスト用のラッカー盤にプレス。

スコティ・ムーアはこの時すでに「やれやれ、俺たちはここに住めなくなるぜ。」とつぶやいたという。何が起こるのか、スコティにはわかっていた。

地元のWHBQ局のDJ 、デューイ・フイリップスに届けた。二日後、デューイ・フイリップスがこれをさっそく自分のR&B番組「レッド・ホット&ブルー」でオン・エアしたところ、たちまち電話で問い合わせやリクエストが殺到あまりの反轡の大きさにその夜エルヴイス自身が番組に引張りだされ、初のインタヴューまで受けることにな

メンフィスだけでのローカルなセンセーションではあったけれど、こうして歴史的な瞬間が訪れた。放送されてから1 週間のうちにエルヴイスのレコードに対する注文が5000 枚集まった。サム・フイリップスは大急ぎでレコードを作り、同年7 月19日、は「ザッツ・オール・ライト」と「「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」のカップリングによるシングルを正式にリリース。これがメンフイスのローカル・カントリー-チートで3 位まで上昇するヒットを記録し、エルヴィスはプロのシンガーとして第一歩を踏み出した

やがてエルヴィスが観答の前に生の姿を現わすようになると、さなるセンセーションがやてくる7 月30日には、地元のカントリー・ショー香組に出演し、プロとして初のパフォーマンス甘くセクシーなルックスはもちろん、常に足を震わせながら歌うそのスタイルに女性の観客はものすごい歓声と悲嶋をあげたティーンエイジャーではなく、普段は礼儀しいカントリー・ミュージックに耳を傾けているれっきとした大人の女性たちが黄色い悲鳴をあげたのだ。女性を解放した素晴らしい歴史の転換の瞬間だった。

この話をなんど聞いたかわからない。ここからエルヴィスも予期しなかった音楽界、社会を変えることになった。永遠に。が、エルヴィスは全て自然体だった。何か意図して反抗したものではなかったが、社会は規制の価値観を破壊する存在として警戒した。この構図はロックをビジネスにするものにとって必須の条件として自分たちのスタイルにした、

エルヴィス映画の魔術

メキシコの少年とエルヴィスが自転車で走ります。
素敵なシーンが見られるのも映画だからです。

エルヴィス映画の魔術には一級品にしてはいけない不文律があったのではないでしょうか。映画は金と時間とセンスがあればいくらでもよくなります。そのバランスがとるのがプロデユーサーと監督ではないでしょうか。つまり素材を活かすセンスが重要なのです。

仮に『ウェストサイド物語』クラスの映画にエルヴィスを登場させたとしてエルヴィスは活きるでしょうか。無理だと思います。『ラスベガス万才』は数少ない成功作でしたが、アン=マーグレットという共演者がいたからです。ビートルズ映画が成功しやすいのも四人組だったからです。エルヴィスの場合はひとりだし、どんな共演女優を持ってきても相手女優にシーンをさくので、エルヴィスの魅力は半減します。1+1は2なのです。エルヴィスという素材を映画で見せるにはライブしかないことになります。

たとえば『アカプルコの海』では<ボサノヴァー・ベビー>を歌うカッコいい場面がありまうす。そこに共演女優の様子を見せるシーンが一瞬あります。「歌っている時にエルヴィス以外は映すな」がファンの声です。そんなこととをしていたら映画になりませんが、エルヴィスがカッコよければ良いほど誰もがエルヴィスだけを見ていたいのです。

その問題をセンスで乗り切ったのは『ラスベガス万才』の体育館のシーン、<ホワット・アイ・セイ>のでイスコシーンです。ミュージカルの名匠、ジョージ・シドニー監督の手腕です。

一般にエルヴィスを楽しむことと、映画を楽しむことは、一つになりません。
エルヴィス映画はエルヴィスを見せる、聞かせる装置なのです。

 

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