「明日は遠く/Tomorrow Is A Long Time」はボブ・ディランの作品。
エルヴィス・プレスリーが1966年に発表した当時、 ボブ・ディランのレコードは発売されておらず、エルヴィスは、キング牧師が最高のフォーク歌手だと称賛したオデッタのレコードをよく聴いていて、エルヴィスはオデッタのアルバム“Odetta Sings Dylan”でこの曲「明日は遠く」を覚えたと言われている。
アコギをバックに5分を超える味わい深いエルヴィスの天才的なパフォーマンスには強く惹かれる。ボブ・ディランが「僕の宝物だ」と称賛するのも当然だ。
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エルヴィス・プレスリーの「明日は遠く」
明日は遠く/Tomorrow Is A Long Time
If today was not an endless highway,
もし今日が終わりの無いハイウェイではなく
If tonight was not a crooked trail,
もし今夜が曲がりくねった小道ではなく
If tomorrow wasn’t such a long time,
もし明日がこんなにも遠くなかったら
Then lonesome would mean nothing to you at all.
孤独なんて俺には関係なかった
Yes, and only if my own true love was waitin’,
本当に愛する人が待っていてくれれば
Yes, and if I could hear her heart a-softly poundin’,
もし、彼女の穏やかな心臓の鼓動が聴こえてさえいれば
Only if she was lyin’ by me,
彼女だけでも側に横いてくれたなら
Then I’d lie in my bed once again.
俺はもう一度、自分のベッドで眠りにつけただろう
I can’t see my reflection in the waters,
水面に映る己の姿さえ見ることが出来ず
I can’t speak the sounds that show no pain,
人を傷つけない言葉さえ話せず
I can’t hear the echo of my footsteps,
自分の足音のさえ聞く事が出来ない
Or can’t remember the sound of my own name.
自分の名前の響きさえ思い出せない
Yes, and only if my own true love was waitin’,
そうだ、本当に愛する人が待っていてくれたら
Yes, and if I could hear her heart a-softly poundin’,
もし、彼女の穏やかな心臓の鼓動が聴こえてさえいれば
Only if she was lyin’ by me,
彼女だけでも側にいてくれたなら
Then I’d lie in my bed once again.
俺はもう一度、自分のベッドで眠りにつけただろう
There’s beauty in the silver, singin’ river,
美しく銀色にきらきら輝く 川のせせらぎは歌となる
There’s beauty in the sunrise in the sky,
美しい空に輝く夜明けの太陽
But none of these and nothing else can touch the beauty
だが、それらさえ遠く及ばぬ美しいもの
That I remember in my true love’s eyes.
愛する人の瞳の輝き
Yes, and only if my own true love was waitin’,
本当に愛する人が待っていてくれたら
Yes, and if I could hear her heart a-softly poundin’,
彼女の穏やかな心臓の鼓動が聴こえてさえいれば
Only if she was lyin’ by me,
彼女だけでも側にいてくれたなら
Then I’d lie in my bed once again.
俺はもう一度、自分のベッドで眠りにつけただろう
カリフォルニア万才/Spinout
「明日は遠く」はエルヴィス・プレスリー21作目の劇映画『カリフォルニア 万才/Spinout』サウンドトラックアルバムにボーナスソングとして「アイル・リメンバーユー」「横町を下って」と共に収録された。サントラ用作品が9曲だったので、ボーナスソングとして収録されたが、いずれも力作で「おまけ」として聞くような代物ではない。
いずれもシングルカットしてリリースしても良いレベルの作品揃い。
個人的には『カリフォルニア 万才/Spinout』(1966.10)のパワフルなクロージンングナンバー「ひとりに戻ろう」が好きだ。と言わずに言われないほど気にいっている。
エルヴィスは、1966年5月から1968年1月に映画とは無関係にナッシュビルのRCAスタジオBで録音していた。「明日は遠く/Tomorrow Is A Long Time」はナッシュビルのRCAスタジオで録音したものを集めたコンピレーションアルバム『明日は遠く/Tomorrow Is A Long Time』としてリリースされた。
後にサントラのEP盤やボーナスソングを集めたコンピレーションしたアルバムを廉価版アルバムとしてリリースしているが、その1枚にも収録されている。
低迷期といわれる時期の作品群だが、実際にはいずれも素晴らしい出来栄えになっていて、アメリカのサブカルチャーが混乱のピークにさしかかりビジネス的に中途半端になっただけである。
ボブ・ディランは自身のものとしては正式には録音されておらず、『ボブ・ディラン、グレーテスト・ヒット第2集』で1963年のニューヨーク・シティ・タウン・ホールでのライヴ・バージョンが発表されているのみである。ディランは東京ライブでもこの曲を歌っている。
エルヴィスはキング牧師が「最高のフォーク歌手だ」と語っていたのオデッタのレコードをよく聴いていて、“Odetta Sings Dylan”でこの曲を覚えたと言われている。
エルヴィスが「明日は遠く」を録音、ボブ・ディランは、「明日は遠く」のカヴァーの中で最も気に入っていると語っており、私の宝物だとコメントしている。
聴かずに死ねるか /Tomorrow Is A Long Time:1966
「明日は遠く」は、コンピレーションアルバム『Tomorrow Is A Long Time』としてリリースされたが、『Tomorrow Is A Long Time』には、他にもライブに復活する直前の傑作が収録されたいる。
「ギター・マン/GuitarMan」は映画「ブルーマイアミ」のサントラ盤のボーナスソングとしてリリースされたが、「ハイヒールスニカーズ」とのカップリングで68年1月にシングルカットされスマッシュヒットしている。『Tomorrow Is A Long Time』に収録された。
のちにカントリー・ギターの名手としても、知られるようになったジェリー・リードは、俳優兼シンガーライターだったが、10年以上下積み生活を送っていた。エルヴィスはラジオで「ギターマン」を聴いて気に入り、カバーすることを望んでいたが、ジェリー・リードのようなギターを再現出来なかったため、ついにジェリー・リード本人を呼ぶことにした。
釣り旅行中だったジェリー・リードがスタジオにやってきた時には、リードは1週間ほど髭を剃っておらず、古い泥だらけの服を着て現れ、フェルトン・ジャーヴィスによるとアラバマの野生人のように見えたため、エルヴィスは驚いたそうだ。
「ギターマン」はフェードアウトして終わるが、エルヴィスはこの後に続けて「ホワッド・アイ・セイ」を歌っており、そのバージョンは『フロム・ナッシュヴィル・トゥ・メンフィス ジ・エッセンシャルズ60’sマスターズ』で発表されている。
「ギター・マン」と同じくジェリー・リードのギターワークが光る「ビッグ・ボス・マン」の録音後、ジェリー・リードに「ギター・マン」の版権を譲るよう交渉が行われたがリードはそれを拒否したためビジネス上のトラブルが起き、リードは帰ってしまった。
1968年1月のセッションでリードは呼び戻され録音に参加し、その後もエルヴィスに自作曲の「アメリカ魂」を提供、1968.3月にシングルリリースされた。妻のプリシラ・ミッシェルはザ・ジョーダネアーズと一緒に歌っていたこともあったという。ジェリー・リードは、68年TVスペシャルにも出演している。
チャック・ベリーのカバーである「モンキー・ビジネス」では歌詞の横浜の部分をヴェトナムに変えて歌っており、時代を反映している。ジェリー・リードも参加している。映画「ステイアウェイ・ジョー」のオープニングに使用され、エルヴィスの世界観が発揮された曲として仕上がっている。
「いつも夢中」と「アイル・リメンバー・ユー」は『フロム・ナッシュヴィル・トゥ・メンフィス ジ・エッセンシャルズ60’sマスターズ』と同様、オリジナル・リリースとは異なるテイク、またはバージョン(「アイル・リメンバー・ユー」は間奏等を含む、未編集のロング・バージョン)が収録されている。
「ラヴ・レター」のセッションではカントリー・ピアノの代表的存在、フロイド・クレイマーの到着が遅れたため、代わりにデヴィッド・ブリッグス(David Briggs)がピアノを弾き、 フロイド・クレイマーが到着してもエルヴィスはデヴィッド・ブリッグスにピアノを弾いてもらうように希望。彼がそのままピアノを担当したが、1970年にデヴィッド・ブリッグスの希望で再録音され『ラヴ・レター・フロム・エルヴィス』に収録された。
ナッシュビルのRCAスタジオで録音した曲を集めたコンピレーションアルバム『明日は遠く/Tomorrow Is A Long Time』には、1966年6月10日録音の「毎日がクリスマスなら」と1967年9月11日録音の「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」「ウィ・コール・オン・ヒム」の3曲はクリスマス・ソング、ゴスペルであるためクリスマスアルバムとしてリリースされた。ボーナスソング、クリスマスソングと聞くとお手軽な楽曲と誤解されるが、どれをとってもハズレのないしっかり楽曲、圧倒的なパーフォマンスで、さすがエルヴィスと思わせるものばかりである。自分で確かめてみないと損をする、まさに「聴かずに死ねるか、エルヴィス・プレスリー」である。
世間の常識って怖いよね。お釈迦様に学ぼう、「自灯明、法灯明」だよ。
対抗文化(カウンターカルチャー)
1960年代のアメリカは年を重ねるごとに。混乱を深めた。50年代のサブカルチャーは転がるように、対抗文化(カウンターカルチャー)に変化していった。女性解放運動(ウーマンリブ)が追い討ちをかけた。さらに抑圧されたいた人種問題が平等へ舵をとればとるほど皮肉にも抑圧の蓋が外れて、黒人暴動が多発しだした。機会の平等を求める運動が、さまざまな形の事件を引き起こしたした。
特に若者は、親の世代が第2次大戦後に築いてきた中流階級の安定した生活パターンを否定した。
対抗文化の目に見える兆候は、シンガー・ソングライターのボブ・ディランからはじまったといえる。政治的・社会的なメッセージ・ソングが若者を後押ししたのだ。
一方でイギリス勢のロックンロールが勢いを得ていた。ビートルズ、ローリング・ストーンズなど英国のグループが、アメリカ横断コンサートで爆発的な人気を得た。
背景にはアメリカ人の「変わりたい」「変わらなければ」へのニーズがあった。イギリス勢の人気は、はさらにさまざまな音楽に変形していった。「ハードロック」の人気が高まり、ボブ・ディランに代表される政治的・社会的なメッセージ・ソングが増えた主力になった。
カウンターカルチャーは、1960年代後半から1970年代初めにかけて、米国社会の一部になった。
長髪とひげがはやり、背広とネクタイがジーンズとTシャツに変わった。違法な薬物の使用が増えた。過激な政治活動に飛び込む若者もいたが、多くは服装や性行動の新しい基準を積極的に受け入れた。
サーフィンとロックンロールを融合して明るいカリフォルニア・サウンドで人気のあったビーチボーイズはサーフインを捨てた。
ボブ・ディランがビートルズに対して「君らの音楽には主張がない」といい、ビートルズはスタジオ録音に専念するようになる。観光映画で人気のあったエルヴィス映画とヴェトムはバランスがとれずに時代と距離を置くようになった。アート、音楽、映画、文学、演劇、そして政治と社会……。すべてが引火し合って爆発したカウンターカルチャーの時代だった。
ディランとアンディー・ウォーホルとエルヴィス
▲ダブル・エルヴィスを製作中のアンディー・ウォーホルを訪ねたボブ・ディラン。
ウォーホルは、1960年代初めにポップアートを自身の作品に取り入れる。シルクスクリーン印刷を使った新しいテクニックは、大量消費の象徴に大きな影響を与えた。1962年、アンディ・ウォーホルは、芸術史の新しい時代の始まりだった。
エルヴィスは、1960年、軍隊から帰ってきたが、キングのいない間に、ロックンロールスターたちは事件、事故死、転職などでロックンロール戦線は壊滅状態にあった。復帰したエルヴィスは、依然としてロックンロールのキングでありながら、類稀な才能を開花させながら、自分をパロディ化するようにゆるやかにポップスにスライドしていく。
しかしアメリカは、ケネディ大統領暗殺事件を節目にヴェトナム戦争に介入、モハメド・アリは徴兵拒否。人種を超えてアリを批判する人、称賛する人、意見は2つに割れた。愛国心を貫くエルヴィスを「エルヴィスは軍隊で死んだ」とジョン・レノンは否定した。
▼ニューヨークのタイムズ・スクエアの映画館で、エルヴィス・プレスリー主演映画「いかすぜ!この恋/ Tickle Me」を見終えて、出てくるアンディー・ウォーホル。(1965年)エルヴィスはポップアイコンとして不動だった。
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そのとき、日本は。
1967年原宿にロカビリーファッションを中心にした「クリームソーダ」がオープンする。
1971年(昭和46年)7月20日、マクドナルド1号店が銀座にオープン。
革ジャンを纏った「キャロル」がデビューするのは1972年。
この頃、日本でも「物から心へと」言われ始めだした。
ウッドストック・フェス
若者のカウンターカルチャーが頂点に達したのが、1969年8月のウッドストック・フェスティバルであった。しかし2度と行われることはなかった。確かにカンターカルチャーはあった。しかし単なる妄想でしかなかったといえないわけでもない。
本物はなにか?人生200時代を生きる者はワザを磨く。
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