エルヴィス・プレスリー生前最後のナンバーワン・ヒットとして知られる<サスピシャス・マインド/Suspicious Mindns>は、70年代ライブを熱く盛り上げる迫力のある重要なナンバー。
エルヴィスが録音した傑作<ムーディ・ブルー><ロックンロール魂>の作者と知られるマーク・ジェームスの作品。1968年に自身が歌ってリリースしたが、さっぱり売れなかったのを、エルヴィスがアルバム用に録音、シングルカットしたところ、即座にミリオンセラーの大ヒットになった。キャッチーでソウルフルなサウンドで、エルヴィスが求める南部のサウンドがぎっしり詰まった出来上がりになっている。2002年に全世界26ヵ国でナンバーワン・ヒットとなった<ア・リトルレス・カンヴァセーション/A Little Less Conversation >で、ビートルズを抜き18タイトルでナンバーワン・ヒット単独ギネスを樹立した。
サスピシャス・マインド/Suspicious Minds
スターであることと、プロであることは密接な関係にある社会の方が健全です。
そんな当たり前を当たり前のようにストレートに投げ込む映画が『ディボース・ショウ』
ジョージ・クルー二ーとキャサリン・ゼタ・ジョーンズ、美男美女のスターががっぷり組んでます。
ジョージ・クルー二ーってすごい人だと思いますね。スターの仕事らしくない地味だけどいい作品とオールスターの『オーシャン11』のような作品とうまくコントロールしていて、なにより自分のしたい仕事を選んでいるようです。
それができるのもスターだからですよね。
(プロデューサーで脇役に回った『ウェルカム・トゥ・コリンウッド』は傑作ですよ。)
『オーシャン11』には<ア・リトル・レス・カンバセーション>がいよいよという場面に使用されましたが、今回の『ディボース・ショウ』には<サスピシャス・マインド>がピックアップされました。
それにしてもハリウッドは『オーロラの彼方に』『ブラックホール・ダウン』・・・チャートナンバー1になった<サスピシャス・マインド>が好きなようですね。・・・大人の恋のてん末を描いた『ディボース・ショウ』のテーマにぴったりなようです。
今回偶然見た『ディボース・ショウ』のパブリシティ、それにしても美しいですね、
エルヴィス・プレスリーの声は、主役のふたりを凌駕してしまいます。
テレビから流れる声にうっとりします。デジタル放送で見ていたのです。音がクリアなだけ、ああすごいなって。うまくて美しく、改めてこの曲にうっとりです。
今後ますます音響・映像事情が変わっていくと、リリース当時とはまったく違うように聴こえてしまうかも知れませんね。
どんなに変わってもエルヴィスの心だけは変わりようがありません。
『ディボース・ショウ』はスターふたりがスターの仕事らしい映画で共演が愉しみです。
スターといえば、エルヴィス・プレスリーも大スターでした。たとえばケーリー・グランドもそうだし、ジョン・ウェインもそうだし、ハリウッドにはスターがたくさんいました。
日本の映画・音楽界もそうでした。
いつからかスター然としたものやことがダサイと思われる時代がやってきて、随分何かと様変わりしました気がしませんか。
それと無関係ではないと思うのですが、いつの間にアマもプロも境界が曖昧になって、特に我が国では映画も音楽も大人でなくなったものが大量に増え続けて、おかげでますますアマとプロの境界が曖昧になっているように思うのはボクだけではないと思いますが、いかがですか?
スターがダサイの発想の裏には努力の省エネを認める構造になっているような気がしたりする最近です。
スターになることとプロフェッショナルになることは違いますが、同じであることは「文化」を育むうえで大切なことだと最近しきりに思うようになりました。
大リーガーなんか観てると特に感じます。
大人にもなりきっていない”ミュージシャン”が愛だの恋だのと歌い、単語だけが躍っている曲が当たり前のように蔓延し、若者がカラオケボックスを占領して遊ぶ内に、愛も恋もついに分かることのないまま年齢的に大人になって愛だの恋だのいいながら世帯を持つ。
こういう世の中って不幸だと思うのですよね。それが幼児虐待ということと決して無関係ではないと思うのです。
いえね、彼等、彼女が悪いというより、それに対抗する、あるいは並行する文化が「お金にならない」という理由だけで、隅っこに押しやられているのが問題なのですよ。
エルヴィス25周年『エルヴィス・リブス』でも、ブリトニーや、シャキーラ、旬のディーバがエルヴィスを称賛する。これって日本のスタンスに置き換えると、たとえは悪いかも知れないけれど、浜崎あゆみや中島美嘉が三橋三智也や春日八郎を称賛する、それが行き過ぎでも、美空ひばり、石原裕次郎を称賛するのと同じですよ。
ディズニーがマジにエルヴィスを取り上げてアニメを制作する。ドラえもんが裕次郎ファンだというようなものですよ、
美空ひばりさんの作詞した未発表曲を松浦亜弥が歌ったのは数少ない事例ですが、自分の親や先祖を大事にする文化を尊ぶ意味でどんどん時空を超えた交流があっていいと思います。
親の時代の文化、祖母の時代の文化を決してないがしろにしない。互いの文化を認め合うのが自由です。そいうことを思いながら、<サスピシャス・マインド>を聴いています。
<サスピシャス・マインド>と<恋にしびれて>
『ディボース・ショウ』では1968年の<サスピシャス・マインド>が使用されましたが、もう一本公開が迫っているティム・バートン監督の『「ビッグ・フィッシュ」』には南部がらみと50年代ムードから1958年の<恋にしびれて>・・・エルヴィスのナンバーワン・ヒッツが使用されています。
<サスピシャス・マインド>と<恋にしびれて>、2つの曲には10年の開きがあります。
すでに一児の父になった時期の<サスピシャス・マインド>、かたや<恋にしびれて>母親に楽をさせてあげたいとプロの世界を懸命に過ごしていた21歳のエルヴィスです。
エルヴィス・プレスリーは19歳でデビュー、21歳で世界的なスター・ミュージシャンになりました。
エルヴィスの若い頃の魅力はやはりロックンロールに尽きます。バラードも捨てがたいですが、ロックンロールもバラードも、どちらかというと声が楽器のように躍動する魅力が勝っていたように思います。
しかし、思い付くままにならべても、<恋にしびれて>から<サスピシャス・マインド>にたどり着くプロセスに<今夜はひとりかい><好きにならずにいられない><愛しているのに>と変遷していきます。この3つの曲を比較しても<愛しているのに>に人間として、プロとして成熟度がはっきり分かります。
ボクはピンク・レディが大好きです。
でも成人になる前にスターになった彼女たちに、数年間もちこたえるだけの”サムシング”がなかったために、いまだに彼女たちが光を放つのはスターだったピンク・レディしかないのです。残念です。
寝る時間もないほど働いた彼女たちの努力不足だったのでしょうか?
ボクは世の中の仕組みの方がおかしいと思います。成人にもならない彼女たちに持ちこたえるだけの内容がないのが当然なのです。
持ちこたえるだけの内容がないものが大量にばらまかれ、消費され、消費する者にもサムシングが残らない不幸。
罠にかかるな、抜け出ておいで。
罠にかかるな、抜け出ておいで。
*We’re caught in a trap, I can’t walk out
Because I Iove you too much, baby W
hy can’t you see what you’re doing to me
When you don’t believe a vvord I say
**We can’t go on together with suspicious minds
And we can’t build our dreams on suspicious minds
So if an old friend I know stops by to say hello
Would I still see suspicion in your eyes?
Here we go again, asking vvhere l’ve been
You can’t see these tears are real, I’m crying
**Repeat
Won’t et our ove survive
Or dry the tears from your eyes
Let’s don’t let a good thlngs die
Oh my honey, you know I never lied to you
*Repeat
***Don’t you know l’m caught in a trap
I can’l walk out
Because I iove vov too much, baby
***Repeat
*罠にかかったよ、どうしてもぬけられない
ベイビー、
君を愛し過ぎているから
気づかないのかい、君が僕に何をしているか
僕の言葉などひとことも信じてくれないで
**疑いの心を抱きながら、一緒にやっていけないよ
疑いの心の上に、夢など築けるはずもない
古い友人にばったり会って、挨拶をかわしたなら
君の目には疑いの色が浮かぶのだろうか
同じことのくり返しさ、僕の行き先を問い詰めたりして
この涙が本物だってわからないのかい
**くり返し君は二人の愛を続かせようとも
泣くのを止めようともしない
せっかくの愛を無駄にするのはやめよう
ハニー、君に嘘などついたことはないよ
*くり返し
***罠にかかったよ
どうやってもぬけられない
ベイビー、君を愛し過きているから
***くり返し
サスピシャス・マインド~メンフィス・1969・アンソロジー
<サスピシャス・マインド>が大傑作なのは、4分30秒、シングル盤としては異例といえる時間の長さにもあります。そのキャリアが語るように2分30秒のシングル盤にこそスターとしての本領を発揮したエルヴィスが、アルバム全盛時代の突入に逆行するように放ったシングル盤の新境地。
終わるかと思うとまた繰り返し始まる。消えかけては消えない疑いの心がシングル盤上で延々と繰り返されることで、このどうしょうもない関係が表現されています。
ボクたちは”男のぼやき”をまさしく”聴かされる”わけです。
ですが、歌っているのがなにしろエルヴィスですから、実は疑いの心が間違っていなくて、怪しいのはエルヴィスだって思います。そうなるとコミカルですし、一連のエルヴィス映画の残像がダブります。
それをエルヴィスがロックロールのルーツと言っていたゴスペルとカントリーの香りが融合されてひとつになったとき、そうですよ、この曲にはまさしくエルヴィス・プレスリーのエキスが充満しているのです。
だから<サスピシャス・マインド>がチャートトップになるというのは、単に曲がいいということではなく、アメリカ中が「待ってたぜ!キング!」と言っているようなものですね。
ところがそれで完結する曲ではないのが、<サスピシャス・マインド>の素晴らしさなのです。
エルヴィス25周年『エルヴィス・リブス』で、あの飛び跳ねゲンキなノーダウトがこの曲をカバーしていますが、それを観ても聴いても分かるようにバラードのように美しく歌っています。
そうですよね。この曲の心はとても複雑で、弱き者へのいたわりの精神なのです。
エルヴィスの声がとてもきれいなのも、傷ついた者へのいたわりの心と、思いやりになっていない思いやりへの断腸の気持ちのせいではないでしょうか?
そう考えると、2分30秒のセオリーを無視したシングル盤上で展開される繰り返しは、女性の疑いの心が問題ではなく、けじめがつけられない男のだらしなさかも知れません。
う~ん、もしかしたら実体験ゆえの生々しさかも知れませんね。(笑)
ライブではヘトヘトになるまで歌っていましたよね。
初めてラスベガス・ライブをとらえた劇的なアルバム『エルヴィス・イン・パーソン』では7分を超える熱演です。この曲に対するエルヴィスの心なのかも知れません。スローに歌う部分は愚かな行為に対する悲鳴のようです。
そう考えると<サスピシャス・マインド>と見かけと心の裏腹を歌った<悲しき悪魔>の2曲が、ソマリアの悲劇を描いた『ブラックホール・ダウン』で使用されたのは奥が深いですね。
<サスピシャス・マインド>は、簡単に人を傷つける時代にこそ聴きたい曲です。
人を傷つけることも、傷つけられることも、簡単にしてはいけないのです。
たまには考えてみるものいいですね。
なぜ25年以上前に死んだ者の歌声がヒットチャートのトップになるのか。
・・・・心があったからさ。
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