あの娘が君なら/She’s Not You:1962

特選ソングス

あの娘が君なら/She’s Not You

時は春、バレンタインデーにぴったりの変幻自在なラブソングが楽しい。ホント、ボクはエルヴィスが最高に大好き。
<あの娘が君なら>は、伝説の映画『アメリカン・グラフィティ』の舞台になった1962年のナンバーワン・ヒット曲。ジャケットのエルヴィスが着ているシャツも当時の代表的なシャツで、『アメリカン・グラフィティ』の登場人物も着用。現代の世相もビートルズもベトナム戦争もほぼほぼ無縁で、モンローもケネディ大統領もバリバリだった正真正銘、60年代初期のポップなほろ苦いラブソング。

あの娘が君なら>を聴くと『アメリカン・グラフィティ』のジョンとキャロルがフォードの黄色いデュース クーペに乗って、夢の彼方からUターンしてくる気分。なかでもエルヴィスもカヴァーしたチャック・べりーの<ジョニー・B・グッド>が流れる場面は映画史に燦然と輝くサイコーの星5つ。

110%ロックンロールな<監獄ロック>の強力コンビ、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーがドク・ポーマスと組んだ1962年の軽快なナンバー。全米で最高位第5位、イギリスではヒット・チャート、ナンバー1を記録しています。
B面は<内気な打明け>で<あの娘が君なら>と似たような切ない恋心を歌ったポップスに仕上がっています。ドク・ポーマスは、この時期のエルヴィスの創造性は突出していて他のアーティストには見ることができない何かを学ばせてもらったとコメントしています。

何度も<あの娘が君なら>聴くように、何度でも言うけれど<あの娘が君なら>を聴いていると『アメリカン・グラフィティ』のジョン・ミルナーが乗り回していたフォードの黄色いデュース クーペ が夢の彼方からUターンしてくる。
もちろん助手席には、おませなキャロルが乗っている。

彼女の髪はやわらかで瞳は、
なんてキレイなブルー
女なら誰でも憧れるような女性だけど
あの娘は君じゃない
励まして笑わせてくれるんだ
僕がふさいでいる時に
男にとっては理想の女だけど
あの娘は君じゃない

*二人でダンスをしていると
頭がおかしくなりそうさ
僕は必死でこらえてる
君の名を曝かないように
彼女のキスの仕方まで
あまりに君にそっくりさ
僕のハ一トは痛みでうずく

だって、あの娘は君じゃない
僕のハ一トは痛みでうずく
だって、あの娘は君じゃない

*くり返し

僕のハ一トは痛みでうずく
だって、あの娘は君じゃない

君は彼女じゃない

あの娘が君なら。
原題は彼女は君じゃない。
裏返せば君は彼女じゃない

アメリカン・グラフィティ』には、いろんなカップルが登場するが、
キャロルとミルナーのコンビは最高、キャロルがジョンにくっつくと「離れて座ってろ」と、ホント、子ども扱いする不良のジョン・ミルナーをふりまわし、ついには「帰って宿題しろよ」と言わせるキャロルはポップすぎて最高!「ところで家はどこだ?」と聞くと「追い払う気ね、まだまだ遊ぶわよ」と言えば隣のクルマから「子守のバイトか」と冷やかされる始末、

なかでもエルヴィスもカヴァーしたチャック・べりーの<ジョニー・B・グッド>が流れる場面はサイコー。

ジョンが走行中、隣の車に乗っていた女から「イカすクルマね、賞品あげる」と水風船を投げ込まれ、キャロルの顔面にぶつかり破裂する。悲鳴をあげるキャロルを見て爆笑するジョン、

「笑わないで!次の信号でタイヤの空気を抜くのよ!仕返しよ!」とブチ切れるキャロルに「オーライ!ボス」とノリノリのジョン。信号待ちの間に車から飛び降りた2人は<ジョニー・B・グッド>をBGMに、さっきの車にキャロルがスプレーをかけまくる間にジョンが空気を抜いて仕返しをする。

イタズラする方もされる方もきらきらしている。やられる方も楽しそうなのがたまらなく素敵。その上、場面は転換して別のカップルがクルマのなかでイチャイチャ、ますますキャロルとジョンが輝いて見える演出は世に氾濫する変態どもの教科書にしたい映画です。

Her hair is soft
And her eyes are oh, so blue
She’s all the things a girl should be
But she’s not you
She knows just how to make me laugh
When I fee] blue
She’s everything a man could want
But she’s not you
* And when we’re dancing
It almost feels insane
I’ve got to stop myself
From whispering your name
She even kisses me
Like you used to do
And it’s just breaking my heart
‘Cos she’s not you
And it’s just breaking my heart
Cos she’s not you

 

 

 

 

 

エルヴィスとは何者だったのか

映画『アメリカン・グラフィティ』及び続編『アメリカン・グラフィティ2』に使用された楽曲にエルヴィス・プレスリーの曲は一曲も使用されていません。『アメリカン・グラフィティ2』は時代が少し進みボブ・ディランの<ライク・ア・ローリング・ストーン>なども挿入されていますが、やはりビートルズは使用されていません。

つまりエルヴィスもビートルズも支配される存在ではなく、文化を支配する存在であることを意味しています。

現代の日本ではやたらと多様性が呪文のように唱えられ、分断が使われる。そんなことはエルヴィスがアーリーシックスティーズで、精力的に多くの人々を突き動かして支配していたのです。

<あの娘が君なら>で。エルヴィスはこれ以上ないナイーブさでジョーダネアーズと完璧に融合して美しく上質なDooWopを完成させています。これほどのものを<グレート・プリテンダー>のプラターズを取り込んでいる『アメリカン・グラフィティ』のなかを探しても見つけられないでしょう。

音楽が死んだ日

アメリカン・グラフィティ』には、重要なシーンがある。キャロルとジョンの会話のなかで、ビーチ・ボーイズがいいというキャロルに、ジョンは子どもの音楽だと否定した上で、バディ(ホリー)が死んでロックも終わったという。

1986年にロックの殿堂入りしたバディ・ホリーは、1956年から1959年にかけてザ・クリケッツを率い音楽活動を行っていた。
1959年に搭乗した小型機の墜落事故により22歳で死去した。
音楽が死んだ日」としてアメリカ国民に知られてる。

Maybe Baby><Peggy Sue>のヒット曲で知られテックスメックスと呼ばれる独特のサウンドと黒縁メガネのルックスは音楽的にもファッション的にも、後世のロック・グループに強い影響を与えた。ビートルズはバディ・ホリーとザ・クリケッツを模擬したグループとして知られているが、アドバイスをしたのは5人目のビートルズと言われたブライアン・エプスタイン

ブライアン・エプスタインはレコード店を経営していたが、ビートルズをマネジメントする会社まで興して、成功に導いている。当時、イギリスには革ジャンのグループとスーツのグループがいて、革ジャンはエルヴィスのフォロワー、スーツはバディ・ホリーのフォロワーと言われるほどルックスで言い当てることができたという。
革ジャンだったビートルズをスーツに替えさせたのはブライアン・エプスタインだった。当時の写真でわかるようにスーツ姿のビートルズの方がスタイリッシュだ。

そもそもテキサス育ちのバディ・ホリーはエルヴィスのフォロワーで、エルヴィスの前座をつとめ、面会もしていて「とても気さくな人だった」とコメントしている。シンガーソングライターという言葉もない時代の草分け、バディ・ホリーはエルヴィスを真似てドラムスを入れていなかったが、エルヴィスがドラムスを入れたのを見て、自身もドラムスを入れた。ヒーカップ唱法の歌声を聴くとわかるが、エルヴィスを意識して随所にエルヴィス=ロックンロールが伺い知れるが、エルヴィスほどブラッキーでないのが特徴。
とにかくエルヴィスの入隊を筆頭に初期のロックンローラーは次々と第一線から消えた。

プレスリーのゴールデン・ストーリー

エルヴィスのデビュー10周年を記念した日本独自のベスト盤(上巻・下巻)として販売されましたが、お金のないガキには手の届かない代物でした。王者プレスリーにふさわしく作りもしっかりしていて厚紙のジャケットでした。

収録曲はロックンロールチューンはじめ<夢の渚><ラスベガス万才><スイムで行こう>など本国では考えられない構成なので、貴重なアルバムと言えます。

エルヴィス・アーロン・プレスリーのストーリーは1935年1月8日、ミシシッピー州テュペロに生まれることからはじまります。
NHKのドキュメントではメンフィスからクルマで2〜30分というので、グレイスランドに行ったおり、朝、タクシーに「テュペロのエルヴィスの生家まで」と告げたら、「やめてくれ」と断られました。「昨日もミシシッピーまで行って、疲れている、一日仕事なんだぜ、堪忍してくれ」・・・さて、ここまで来てしまって、二度とチャンスはないかもしれない、どうしたもんかと考えた末、粘って交渉して行ってもらいましたが、帰ってきたときには真っ暗でした。

エルヴィスの一家はファースト・アセンブリー・オブ・ゴッド教会に入信しており、エルヴィス少年は黒人の歌うゴスペル・ソングに親しんでいました。と同時にカントリーも好きだったエルヴィス少年は1945年、11歳の頃、歌唱コンテストでカントリー・ソング<オールドシェップ>という犬の歌で優勝したという。
その翌年の誕生日には母親からギターをプレゼントされます。エルヴィスはゴスペルだけでなく、インク・スポッツやビリー・エクスタインなど黒人音楽、白人のカントリーに親しんでいました。

1948年に一家はアメリカ南部のテネシー州メンフィスに移住。メンフィスは黒人音楽の中心地で、より泥臭い黒人のR&Bに惹かれていきます。当時メンフィスの白人の間では、R&Bは「罪深い音楽」と認識されており、エルヴィスが家でR&Bを聴いていると批判されたと言います。

ハイスクールを卒業したエルヴィスはトラック運転手として働き始めます。彼は最初の給料で母親にプレゼントをしようと決めてメンフィス・レコーディング・サービス(サンレコード)のスタジオへ出向いたというのが定説になっていますが、真実はわかりません。

エルヴィスは、レコーディングの料金は4ドルを支払い母親の大好きだった古いバラード・ソング“マイ・ハピネス”と“ザッツ・ホエン・ハートエイクス・ビギン”をレコーディングします。ずっと行方がわからなかった、このレコードが、比較的最近になって友人宅にあったと判明します。

運命ここから始まります。このスタジオを経営していたのが有名なサム・フィリップスで、彼は50年代から黒人R&Bシンガーや白人カントリー歌手たちの活動の場を提供してきた男であり、1952年にサン・レコードという新しいレコード会社を発足したばかりでした。彼の有名な言葉に、「黒人のように歌える白人シンガーがいたら、自分は億万長者になれる」というのがあります。そのスタジオで、エルヴィスは4ドル支払ってレコードを作ったのです。

そして約1年後の1954年6月、フィリップスはエルヴィスに連絡をとります。7月4日から4日間にわたってレコーディングが行われます。

このときのことを現場(サンスタジオ)でポール・マッカートニーは、当時のバンドメンバーと再現して楽しみます。ビートルズは黒人音楽に敬意を払ったことがないバンドとして知られていますが、スピリチュアルなゴスペル、ブルースやR&B感覚に代表される黒人音楽、カントリーに凝縮される白人音楽、エルヴィスが愛したアメリカ音楽のルーツにダイレクトに触れることで、ヒト一倍感受性の強いエルヴィス・プレスーがなんっだたのか、皮膚で感じたことでしょう。

コメント