泣きたいほどの淋しさだ / I’m So Lonesome I Could Cry

エルヴィス・プレスリーとは何者だったのか 特選ソングス

エルヴィス・プレスリーが、「僕が知っている一番寂しい曲だ」と紹介した曲。メロディーも歌詞もとても美しい曲、オリジナルはハンク・ウィリアムズが1949年に8票したカントリー。エルヴィスは子どもの頃からラジオから聞こえるハンクの歌に親しんでききた。
ハンク・ウィリアムズは「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第27位、「カントリー音楽で最も偉大な40人」第2位(2003)に選出されている。
エルヴィス・プレスリーを筆頭にボブ・ディラン、ジェリー・リー・ルイス、ジーン・ヴィンセント、カール・パーキンス、リッキー・ネルソンなど50年代にデビューした多くのロックンローラーがハンク・ウィリアムズをカヴァーしている。変わったところでは矢野顕子さんのカヴァーも魅力的だ。

エルヴィスは、オリジナルを尊重しながら、ややスローに寂寥感、絶望を長調のメロディーで歌い、完全に自分のものにしていて、カヴァーのお手本を聴かせる。前述した時代の寵児となったアーティストたちと、明らかな違いは、エルヴィスのパフォーマンスは、聴く人が背負った人間的苦悩、挫折し、苦しむ人々の心を癒すことだ。

そしてなにより興味深いのは、エルヴィスの歌は、エルヴィスが意識したわけではないのに、まず誰より自分のために歌っていることだ。自分への癒しがオーディエンスへの癒しになることだ。これは仏教でいう「自利利他」の実践であり、「慈悲」である。慈悲は難解な概念で「愛情」と混同されるが、全く別のモノである。
アロハ・フロム・ハワイ』『エルヴィス・オン・ツアー」に収録された「泣きたいほどの淋しさ」を通して『エルヴィス・プレスリーの「慈悲」』について話したい。

I’m So Lonesome I Could Cry

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淋しい夜鷹の鳴き声を聴いてごらん
飛べないほどの憂鬱な声だ
夜汽車は沈んだ音ですすり泣く
泣きたいほどの淋しさだ

夜がこんなに長いものだとは
時間はじりじりと滞っている
月は雲の裏に隠れてしまった
泣いてる顔を見られたくないんだ

コマドリが嘆き悲しむのを見たことがあるかい
木の葉が枯れはじめたときに
僕も同じだ 生きる気力を失ってしまった
泣きたいほどの淋しさだ

ひっそり静かに流れ星ひとすじ
むらさきの空に輝いて消えた
君はどこに行ってしまったのか
泣きたいほどの淋しさだ

孤独な少年は、甘えることを我慢しながら甘えていた。その結果、甘えられない人間でありながら、甘えていた。混乱は必然だ。
”ザ・キング・オブ・ロックンロール”エルヴィス・プレスリー誕生の理由は寂しい少年時代にある。甘えることを我慢しながら甘えることは自分の居場所がないことを意味する。居場所がないとは言えないので、ラジオから聞こえる歌声に居場所を求めた。

なぜ少年は、甘えることを我慢しながら甘えたのか。

ショットガンハウスと呼ばれるエルヴィスの生家

甘えることを我慢したのは、両親を想ってのことだ。両親に余分な負担を強いることがつらかったのだ。では、なぜ甘えたかの?やはり両親を想ってのことだ。甘えることで「普通の子」を演じて安心させてあげたかったのだ。その甘え方は自身おぼ欲求に従ったものなのか。そえでないだろう。エルヴィス・プレスリーは生まれながらにして歌手で俳優だった。

このような暮らし方をすれば、自分自身を見失う。ラジオから聴こえる音楽が現実だった。ラジオあを通じで共感を学んでいく。共感は慈悲のベースだ。

見えないものにしか関心のない合理的な人々には「心ここに在らずの捉えどころのない子」に映っただろう。エルヴィスの慈悲は蓄積されていくが、ほとんどの人は気がつかない。

慈悲のアーティスト:エルヴィス・プレスリー

エルヴィス・プレスリーとは何者だったのか

エルヴィス・プレスリーは慈悲のアーティストだ。「慈悲」の定義は難解で、人によって随分イメージが違うかもしれません。慈悲は英語で”Compassion“つまり共に感じると訳されている。慈悲を理解する上で重要なのは、あらゆる人やものが、自分以外の人やものの反映でしかないと認めることことからはじまる。

誰でも自分のいのちが「太古の昔から続いているいのち」であることを認識すれば、宇宙は無限のネットワークで繋がっていると容易に理解できるはずだ。

ネットワークのすべての結び目(=一人一宇宙)には磨き上げられた美しい宝石がぶら下がっているとイメージしてみてください。

磨き上げられた面には他の宝石のすべてが反映されていて、そのどれかに変化に生じたら、他のすべての宝石も変化するという相互関係にある。つまり「縁起」の本質を伝える比喩であり、慈悲は磨き上げられた面と同じだ。エルヴィスが民間に於ける人類初の宇宙中継を行ったのは、偶然であるが、神の意思が働いていたといっても過言ではないのだ。偶然は必然だった。ネットワークの結び目にぶら下がった宝石が美しいのは、痛みのネットワークが発するきらめきだ。

万倍も美しいコンサート

金子みすゞさんは、見えないモノの美しさを詩に託した。

世界中の王様の
御殿をみんなよせたつて、
その萬倍もうつくしい。
――星で飾った夜の空。 

世界中の女王様の
おべべをみんなよせたつて、
その萬倍もうつくしい。
――水に映つた朝の虹。 

星で飾つた夜の空、
水に映つた朝の虹、
みんなよせてもその上に、
その萬倍もうつくしい。
――空のむかうの神さまのお国。

(『萬倍』金子みすゞ)

見ている世界より万倍も美しい世界があると金子みすゞさんは、きらめきを掬った。エルヴィスのハワイからの全世界同時中継は、痛みに挫けず生きている人々のキラキラを結び目の宝石に映し出したのだ。星で飾った一晩限りの宇宙中継だが、万倍も美しいコンサートにしたのは「慈悲」の力だ。

慈悲とは精励

慈悲の本質は、精励だ。精励とは目の前のことに集中すること。
慈悲を愛情(Love)だと思い込んでいて、分かりにくい表現だと考えている方は少なくない。慈悲と愛情の決定的な違いは、愛情は私とあなたの二元論から離れがたい表現であるだけなく、慈悲には刺激がなく退屈ささえ感じるだろう。が、慈悲とは愛情は全くの別物だ。

精励つまり目の前のことに集中することであれば目の前の人に対する接し方がどうあるべきか目に浮かぶのではないだろうか。たとえばオーディエンスの前にたったエルヴィスのように。

エルヴィスの歌は、今日一日をサバイバルした人への癒しだ。今日一日をサバイバルする厳しさを知っている者からの癒しだ、

慈悲は愛情では語りつくせない、太古の昔から続いているいのちのネットワークが奏でる壮大なシンフォニーだ。

慈悲はネットワークの結び目である「一人一宇宙」の宝石であるという意味がお解りいただけたのではないでしょうか。宝石に映り込む宝石の輝きがネットワークを眩いものにします。

エルヴィスは痛みのアーティストだったが、エルヴィス流に楽しく暮らしたはずだ。
離婚の痛みは、エルヴィス少年の癖の結晶そのもの。甘えたいけれど甘えられない。甘え方がわからないエルヴィスの孤独な甘えは、プリシラに存在価値を地震のように割れ目をつくり傷つけた。エルヴィス流に生きるエルヴィスにも解らずどうにもできなかった難問もある。

歌声に潜むよろこびも痛みも、心して聞けば途方もない輝きの中にいることが見えるでしょう。この意味が体感できたら、輝きに圧倒されるでしょう。これを実感する方法が「慈悲」なのです。慈悲のアーティスト、エルヴィス・プレスリーの歌声は精励ネットワークの宝石。
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